【コラム】夏目漱石と「二つの秋」=韓国

  「日本のシェイクスピア」と呼ばれている小説家の夏目漱石と「近代俳句の父」に挙げられる詩人の正岡子規。2人は明治時代直前の1867年に生まれた同い年の友人だ。互いにインスピレーションを与えあい、近代文学の花を咲かせた。2人が初めて会ったのは22歳だった1889年。第一高等学校(今の東京大学教養学部)の同窓生だった2人は若い文学徒として意気投合した。

  独特のペンネームもこのころに誕生した。漱石は実名である夏目金之助の代わりに子規が付けた「漱石」を生涯ペンネームとして使った。この名前は中国『晉書』の故事「漱石枕流」(石に漱ぎ流れに枕す)から由来したもので、変人の言葉遊びを意味する。子規の実名は常規だったが、結核にかかって喀血した後「泣いて血を吐くホトトギス」を意味する「子規」をペンネームとした。

  ◆俳人と分け合ったインスピレーション

  2人の友情は子規が35歳で亡くなるまで続いた。同じ下宿部屋を使ったり一緒に旅をしたりしながら人生と文学を論じ、互いの作品を発表する紙面も用意した。子規は自身のペンネームにちなんで創刊した俳句雑誌「ホトトギス」に、漱石の出世作であり日本最初の近代小説『吾輩は猫である』を載せた。初めは読み切りの短編として企画されたが、読者の反応が良くて連載となった。2作目である『坊ちゃん』も同誌に掲載されて大きな人気を得た。

  2人が離れている時は俳句をやりとりしながら友情を育んだ。子規が故郷の松山で療養しに行き、そこで教師として勤めていた漱石とともに過ごしたあと、別れ際にこのような俳句を残した。「行く我にとどまる汝に秋二つ」。病気の体を抱えて去ろうとしている者とそこに残っている者の間の「二つの秋」を対比させた句だった。これに対し漱石は「秋風や生きてあひ見る汝と我」という俳句で希望を灯した。「人に貸して我に傘なし春の雨」という句には「春雨や身をすり寄せて一つ傘」という句で応じた。

  漱石は『吾輩は猫である』にも俳句をふんだんに取り入れている。小説の中の苦沙弥先生のあばた跡のように、漱石も天然痘の跡があったがこれを俳句と組み合わせてもいる。

  ◆韓中近代小説胎動の梃子

  2人とも漢文に造詣が深く、外来文明から来た単語を新たに造語として作り出した。漱石が作った漢字造語は、新陳代謝、反射、無意識、価値、電力など数えきれないほど多い。西洋の「ロマン」を漢字語「浪漫」と翻訳したのも漱石だ。子規は野球用語を日本式の漢字に訳した。私たちが使っている「打者」「走者」などはすべて彼の用語から借りてきたものだ。

  日本近代小説の扉を開いた漱石の文学は、20世紀ノーベル賞受賞作家の川端康成と大江健三郎に続いた。

  韓国と中国にも大きな刺激を与えた。李光洙(イ・グァンス)は日本で勉強して漱石に魅了されて帰国したあと、韓国最初の近代長編小説『無情』を書き、中国の魯迅も留学後に『狂人日記』という中国最初の近代小説を発表した。今年は『無情』と『狂人日記』が出版されて100周年の年だ。

  漱石の命日である来月9日を前後して韓日中3国で彼を賛える文学行事が相次いで開かれる。一世紀前、寂しい風の中で「二つの秋」を共有した漱石と子規の友情が新しく、そして特別なものに感じられる。

  コ・ドゥヒョン/論説委員

中央日報 https://japanese.joins.com/article/659/247659.html

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