「大統領選前に金賢姫氏移送を」 大韓機爆破事件の外交文書公開
韓国外交部は、1987-88年に作成された外交文書1620件(約25万ページ)の要約を31日に公開した。公開された文書には、当時の全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が、大韓航空機爆破事件(1987年11月29日)の犯人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚を政治的に利用するために、1987年12月16日の大統領選挙までに韓国国内への移送が完了するよう外交交渉を繰り広げた過程が詳細に記されている。
大韓航空機爆破事件に関連してバーレーンに特使として派遣された韓国外交部(省に相当)のパク・スギル次官補(当時)は「遅くとも(12月)15日までに(韓国に)到着するために、12日までにはバーレーン側から(金賢姫の)引き渡しを通報してもらわなければならない」と外交部に報告した。12月15日は大統領選挙(12月16日)の前日だったが、金元死刑囚は結局15日に韓国に身柄を引き渡された。
この文書から、当時の全斗煥政権が、金元死刑囚を大統領選挙前に韓国に入国させて政治的に利用しようとしていたことが伺える。2006年には国家情報院が過去事件の真相究明作業を通じ、全斗煥政権が「大韓航空機爆破事件は北朝鮮の陰謀だった」と暴露することで事件を戦略的に利用しようと計画していたことを明かした。
金元死刑囚の移送が遅れ、韓国政府が当惑していた状況も当時の電文に記されている。バーレーンは金元死刑囚を12月13日午後8時(現地時間)に韓国に移送すると通報してきた。大統領選挙の2日前に当たる14日午後2時にソウルに到着する予定だった。
しかし出発5時間前の13日午後3時、バーレーンの内務相が現地に滞在していたパク・スギル次官補に、移送を24時間延期すると電話で通知した。これに対し、パク次官補は「計画変更は大きな衝撃」だとして「延期は韓国側にとってあまりに大きな問題となる」と述べた。
その上で「真由美(金元死刑囚が当時名乗っていた偽名)の引き渡しが選挙後になるよう、米国がバーレーンに働き掛けた可能性も完全には排除できないため、真由美の引き渡し問題に関して米国側にあまり詳しい情報を提供しないほうが良いと思われる」と伝えた。
1988年に開催されたソウル五輪に関しても、新たな事実が外交文書を通じて明らかになった。北朝鮮の参加を話し合うために南北体育会談を主宰した国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長(当時)は、1984年9月19-23日にモスクワを訪問した後、同月27日に来韓し、北朝鮮が拒絶することを分かっていながら一部種目をソウルと平壌の2か所で分散開催する案を提案していたことが分かった。
サマランチ氏は、ソ連など多くの東側諸国がボイコットした1984年のロサンゼルス五輪と同様の事態を避けるために、北朝鮮を懐柔することでソ連など社会主義諸国の参加を促そうとしていたとみられる。
朝鮮日報 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/03/31/2019033180025.html
大韓航空機爆破事件に関連してバーレーンに特使として派遣された韓国外交部(省に相当)のパク・スギル次官補(当時)は「遅くとも(12月)15日までに(韓国に)到着するために、12日までにはバーレーン側から(金賢姫の)引き渡しを通報してもらわなければならない」と外交部に報告した。12月15日は大統領選挙(12月16日)の前日だったが、金元死刑囚は結局15日に韓国に身柄を引き渡された。
この文書から、当時の全斗煥政権が、金元死刑囚を大統領選挙前に韓国に入国させて政治的に利用しようとしていたことが伺える。2006年には国家情報院が過去事件の真相究明作業を通じ、全斗煥政権が「大韓航空機爆破事件は北朝鮮の陰謀だった」と暴露することで事件を戦略的に利用しようと計画していたことを明かした。
金元死刑囚の移送が遅れ、韓国政府が当惑していた状況も当時の電文に記されている。バーレーンは金元死刑囚を12月13日午後8時(現地時間)に韓国に移送すると通報してきた。大統領選挙の2日前に当たる14日午後2時にソウルに到着する予定だった。
しかし出発5時間前の13日午後3時、バーレーンの内務相が現地に滞在していたパク・スギル次官補に、移送を24時間延期すると電話で通知した。これに対し、パク次官補は「計画変更は大きな衝撃」だとして「延期は韓国側にとってあまりに大きな問題となる」と述べた。
その上で「真由美(金元死刑囚が当時名乗っていた偽名)の引き渡しが選挙後になるよう、米国がバーレーンに働き掛けた可能性も完全には排除できないため、真由美の引き渡し問題に関して米国側にあまり詳しい情報を提供しないほうが良いと思われる」と伝えた。
1988年に開催されたソウル五輪に関しても、新たな事実が外交文書を通じて明らかになった。北朝鮮の参加を話し合うために南北体育会談を主宰した国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長(当時)は、1984年9月19-23日にモスクワを訪問した後、同月27日に来韓し、北朝鮮が拒絶することを分かっていながら一部種目をソウルと平壌の2か所で分散開催する案を提案していたことが分かった。
サマランチ氏は、ソ連など多くの東側諸国がボイコットした1984年のロサンゼルス五輪と同様の事態を避けるために、北朝鮮を懐柔することでソ連など社会主義諸国の参加を促そうとしていたとみられる。
朝鮮日報 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/03/31/2019033180025.html
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