【コラム】朝鮮戦争世代の回顧録に見る「声なき父親」たち

 あすは6・25戦争(朝鮮戦争)が勃発した日だ。80歳を超える文学評論家、同じ年代の画家の妻が書いた父親の回顧録を読んだ。他人には話しにくい愛憎の告白だった。

  大韓民国芸術院の会長を務めた柳宗鎬(ユ・ジョンホ)元延世大学碩座教授(84)の話から触れよう。忠清北道曽坪郡の冬は厳しかった。友人たちが持っていたうさぎの毛の耳あてを欲しがった少年・柳宗鎬を父親は「寒くて耳が遠くなったやつは今までいない」と叱った。父親はけちだった。清州農業学校を出ただけだった父親は身内のこととはいえ、決して明敏な頭脳の持ち主ではなかったという。それでも解放の翌年に中学校の国語の先生になった。日帝(日本帝国主義)によるハングル抹殺政策で韓国語を書くことができる人が少なかった時代の幸運とでも言おうか。しかし、塞翁が馬だった。6・25戦争が勃発したのだ。ぐずぐずした父親は遅れて避難したが、人民軍に追われ、3日もたたずに決まりが悪そうに戻ってきたという。

  息子が覚えている父親は特別な信念を持っているわけではなかった。人民軍の統治下の学校の運動場で農業学校の卒業生らしく野菜を育てた。そして、3カ月後に国軍が失地を回復した。声高な同僚教師は少年の父親に「3カ月も我慢できずに敵に加担したというのか」と「附逆者(反逆に加担した人物)」のレッテルを張った。父親を好きにはなれなかったが、「附逆者の息子」は「3カ月になるか、3年になるかは誰にも分からないじゃないか。誰が望んで敵に加担するものか」と心の中で抗弁したという。

朝鮮日報 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/28/2019062880172.html

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