安重根・独島の史料発掘60年…韓日外交の「陰の仲裁者」

 韓日外交の「陰の重鎮」だった崔書勉(チェ・ソミョン)=本名:崔重夏(チェ・ジュンハ)、92=国際韓国研究院長(写真)が26日午前11時3分、京畿道竜仁市のホスピス病院で持病のため亡くなった。60年間にわたり韓日近現代史の資料を発掘・研究した崔氏は、安重根(アン・ジュングン)の獄中手記、明成皇后(閔妃)の遺体関連の資料を探し出すなど、歴史考証において大きな役割を果たした。

  1928年に江原道原州で生まれた崔院長は、9歳年上のいとこ、故・崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領の家で暮らしつつ原州普通学校を卒業した。その後、延禧専門学校(現在の延世大学)に通う中で45年の光復を迎え、金九(キム・グ)路線に従い、臨時政府出身者が作った韓国独立党傘下の大韓学生連盟の委員長として活動した。47年には張徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件に関与し、獄中でおよそ2年を過ごした。

  獄中でカトリックに帰依した崔氏は釈放後、大東新聞記者、天主教総務院事務局長などとして活動。1950年代には、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領と張晩(チャン・ミョン)副大統領の政治対立に巻き込まれ、57年に日本へ亡命した。

  1960年に日本で亜細亜大学の教授になり、69年に安重根肉筆の伝記である『安応七歴史』を初めて入手したことなどを契機として東京韓国研究院を設立した。崔氏は「日本人よりも韓国のことを知らないのが恥ずかしかった」として、歴史的な現場を靴がすり減るほど訪れ、資料に埋もれて暮らしたという。ここで崔氏は、明成皇后の遺体関連の資料、独島領有権を立証する古地図などを見つけ出した。2005年には、靖国神社に放置されていた北関大捷(たいしょう)碑(壬辰〈じんしん〉倭乱〈文禄・慶長の役〉時の咸鏡道義兵の勝利を記録した戦功碑)を韓国へ取り戻すことにも寄与した。

  韓日外交の陰で活躍したこともあった。反日デモが激しかった1967年、当時の佐藤栄作首相の訪韓を引き出した。88年に韓国へ戻った後も岸信介、大平正芳、福田赳夫首相など日本政界の実力者と交流し、韓国政・財界の人物に橋渡しをした。韓日関係で山場が訪れるたび、コミュニケーションを強調して問題解決を仲裁した。金山正英・元駐韓日本大使は「崔院長を通さなくては韓国との仕事は実現しない」と話していたという。

  崔氏は昨年、韓日対立があおられたときも両国間のメッセンジャー役を務めた。また、複数のメディアのインタビューを通して「批判はするが相手方の視角も考慮する度量を備えるべき」と、感情的対応の自制を訴えた。

朝鮮日報 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/27/2020052780080.html

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